2008年 04月 02日
JCRC第2戦@修善寺 番外編 |
(その2から続く)
というわけで表彰式の観覧もそこそこにさっさとゆーサロンで汗を流してCSCから撤収。
ヒトケタ順位を達成したらご褒美としてウナギを食べようと思っていたのですが、今回のトホホな順位ではそれも叶わず。
しかし、何故か車は三島方面へ走るよどこまでも。いや、別にウナギに未練があるわけではなく単に帰り道がそっち方面というだけなんですよ、マジで。
のはずだったのに気が付いたらいつの間にか「うなよし」の前の通りに居た。
おかしい。なぜだ。
だがここまで来たら仕方ない。不本意ながらウナギ食いますか!と駐車場に入ろうとしたら店の前はありえないほどの大行列。
推定40人~50人の人が狭いスペースにひしめいている。マトモに並んだら1時間以上待ちは間違いなし。
これを見て一気にやる気が失せてそのままスルー。腹へった・・・。
ここでふと、今まで何度も前を通り、見たい見たいと思いながら一度も訪れたことが無い箱根峠直下の「山中城跡」へ行ってみようと思い立つ。
確か茶店みたいなのもあったし、ソバくらい食えるだろう。
というわけで行楽客でゴッタ返す三島の市内を抜けて国道1号線を箱根方面へGO。
目指す山中城は箱根峠からやや三島側に下ったところにある戦国時代の山城。
詳しくはこの辺りを見ていただきたいのですが、要するに豊臣軍の来襲に備えて小田原の後北条氏が大改築を施し四千の兵で立てこもったものの、僅か半日で落城してしまったという悲運の城。
ここは姫路城や彦根城のように装飾性を高めた華麗な近世城郭ではなく、純粋に実用本位な中世の山城としては日本随一の保存状態を誇るという、城マニア垂涎の城跡なのです。
実はかなりの城マニアである私としても非常に楽しみ。
腹ペコなので、まずは駐車場に隣接した茶屋で天麩羅ソバを食す。
客は誰も居らずちょっと心配な雰囲気はあったものの、味はなかなかグー。
客が来ることを予想していなかったのか、天麩羅の在庫がなかったようで、その場で揚げたアツアツのかき揚げが旨かった。
腹ごしらえが済んだところで早速見学へGO!
城跡はほぼ全体が公園になっていますが、よくありがちな過剰な整備はされておらず、自然の地形を生かした散策路がぐるりと本丸・二の丸・西の丸・北の丸・出丸(岱崎出丸)といった郭を巡るようになっていて、主要部だけでもくまなく周ろうと思うとかなりの距離になります。
正直、ここまで大規模なものとは思わなかった。いい意味で期待を裏切られました。
この山中城の最大の見所は北条流築城法の粋を集めた「障子堀」という空堀の遺構。
障子堀とは、堀の内側に畝のような構造を設置することで複雑化し、防御効果を高める効果を狙ったもの。
現在は畝の崩落防止のために芝生や樹木が植えられているが、当時はツルツルの赤土(関東ローム層)がそのまま露出しており、一度落ちると這い上がるのは至難の技だったようです。
こんな感じの障子堀が西の丸の周辺を中心に数多く残されており、とても興味深い。
なんだか、この堀を挟んで飛び交う矢玉の風を切る音、堀をものともせず突進する命知らずの武士の雄叫びが聞こえてきそうな臨場感に満ちています。
これが実戦本位の城か、ウンウン、と一人頷きつつ各所に設置された説明看板を読みながら主要部を踏破するのに1時間近くかかりましたが、説明看板の一つ一つが全て大変興味深く非常に有意義に楽しい時間を過ごせましたよ。
見学順路は最後に寄せ手の先鋒・一柳直末(討死)と守備側の主将・松田康永(討死)のお墓が並んで建つ麓のお寺を巡って終了。
激戦を繰り広げた両軍の武将も、死ねば一つ所に葬られ400年の時を共に過ごす。
そんな諸行無常を感じさせる心憎い演出がステキですね。
激戦が繰り広げられた本丸の土塁に咲くスミレの花。
春草や つはものどもが 夢の跡
心静かに詫び寂びを感じつつ帰路についたのでした。
帰宅後、ネットで山中城のことを詳しく調べていると、なんと、この城が落城したのは私が訪れた日からちょうど418年前の同じ日(天正18年3月29日)だったことが判明。
当時は旧暦だから厳密には同じ日ではないけれど、なんだか不思議な縁を感じてしまったのでした。
今回は国道1号線を挟んで対面にある出丸(岱崎出丸)の方は時間の関係で見ていないので、こちらは次回のお楽しみ。
山中城跡、歴史フェチ・城フェチな方には超オススメです。
というわけで表彰式の観覧もそこそこにさっさとゆーサロンで汗を流してCSCから撤収。
ヒトケタ順位を達成したらご褒美としてウナギを食べようと思っていたのですが、今回のトホホな順位ではそれも叶わず。
しかし、何故か車は三島方面へ走るよどこまでも。いや、別にウナギに未練があるわけではなく単に帰り道がそっち方面というだけなんですよ、マジで。
のはずだったのに気が付いたらいつの間にか「うなよし」の前の通りに居た。
おかしい。なぜだ。
だがここまで来たら仕方ない。不本意ながらウナギ食いますか!と駐車場に入ろうとしたら店の前はありえないほどの大行列。
推定40人~50人の人が狭いスペースにひしめいている。マトモに並んだら1時間以上待ちは間違いなし。
これを見て一気にやる気が失せてそのままスルー。腹へった・・・。
ここでふと、今まで何度も前を通り、見たい見たいと思いながら一度も訪れたことが無い箱根峠直下の「山中城跡」へ行ってみようと思い立つ。
確か茶店みたいなのもあったし、ソバくらい食えるだろう。
というわけで行楽客でゴッタ返す三島の市内を抜けて国道1号線を箱根方面へGO。
目指す山中城は箱根峠からやや三島側に下ったところにある戦国時代の山城。
詳しくはこの辺りを見ていただきたいのですが、要するに豊臣軍の来襲に備えて小田原の後北条氏が大改築を施し四千の兵で立てこもったものの、僅か半日で落城してしまったという悲運の城。
ここは姫路城や彦根城のように装飾性を高めた華麗な近世城郭ではなく、純粋に実用本位な中世の山城としては日本随一の保存状態を誇るという、城マニア垂涎の城跡なのです。
実はかなりの城マニアである私としても非常に楽しみ。
腹ペコなので、まずは駐車場に隣接した茶屋で天麩羅ソバを食す。
客は誰も居らずちょっと心配な雰囲気はあったものの、味はなかなかグー。
客が来ることを予想していなかったのか、天麩羅の在庫がなかったようで、その場で揚げたアツアツのかき揚げが旨かった。
腹ごしらえが済んだところで早速見学へGO!
城跡はほぼ全体が公園になっていますが、よくありがちな過剰な整備はされておらず、自然の地形を生かした散策路がぐるりと本丸・二の丸・西の丸・北の丸・出丸(岱崎出丸)といった郭を巡るようになっていて、主要部だけでもくまなく周ろうと思うとかなりの距離になります。
正直、ここまで大規模なものとは思わなかった。いい意味で期待を裏切られました。
この山中城の最大の見所は北条流築城法の粋を集めた「障子堀」という空堀の遺構。
障子堀とは、堀の内側に畝のような構造を設置することで複雑化し、防御効果を高める効果を狙ったもの。
現在は畝の崩落防止のために芝生や樹木が植えられているが、当時はツルツルの赤土(関東ローム層)がそのまま露出しており、一度落ちると這い上がるのは至難の技だったようです。
こんな感じの障子堀が西の丸の周辺を中心に数多く残されており、とても興味深い。
なんだか、この堀を挟んで飛び交う矢玉の風を切る音、堀をものともせず突進する命知らずの武士の雄叫びが聞こえてきそうな臨場感に満ちています。
これが実戦本位の城か、ウンウン、と一人頷きつつ各所に設置された説明看板を読みながら主要部を踏破するのに1時間近くかかりましたが、説明看板の一つ一つが全て大変興味深く非常に有意義に楽しい時間を過ごせましたよ。
見学順路は最後に寄せ手の先鋒・一柳直末(討死)と守備側の主将・松田康永(討死)のお墓が並んで建つ麓のお寺を巡って終了。
激戦を繰り広げた両軍の武将も、死ねば一つ所に葬られ400年の時を共に過ごす。
そんな諸行無常を感じさせる心憎い演出がステキですね。
激戦が繰り広げられた本丸の土塁に咲くスミレの花。
春草や つはものどもが 夢の跡
心静かに詫び寂びを感じつつ帰路についたのでした。
帰宅後、ネットで山中城のことを詳しく調べていると、なんと、この城が落城したのは私が訪れた日からちょうど418年前の同じ日(天正18年3月29日)だったことが判明。
当時は旧暦だから厳密には同じ日ではないけれど、なんだか不思議な縁を感じてしまったのでした。
今回は国道1号線を挟んで対面にある出丸(岱崎出丸)の方は時間の関係で見ていないので、こちらは次回のお楽しみ。
山中城跡、歴史フェチ・城フェチな方には超オススメです。
by namifujisan
| 2008-04-02 13:34
| 旅