2009年 03月 27日
私の二輪遍歴(オフロード編) |
というわけで、重い・遅い・燃費悪いの3拍子的なカワサキ・FX-400Rに乗る続けること約2年。
私の心の中に「もっと軽くて燃費が良くていろんなところが走れるバイクが欲しい」という潜在意識がほどよく醸成されてきた頃、学校の先輩が「このバイク、捨てよう思とんねんけど、欲しかったらあげるで。」と言われて見せられたのがこれ。
ホンダのXL125Sです。
これは確か1979年頃に発売されたトレール車で、私の学生当時で既に10年ものの中古。
しかも「捨てようと思っている」というほどのバイクだけに、そこらじゅうサビだらけで現状ではエンジンがかからず、タイヤも擦り切れてケーシングが露出しているというポンコツ一歩手前の状態でした。
普通なら「こんなのお金くれてもいりません」というところですが、軽くてどこでも走れるバイクが欲しくてたまらなかった私は即決で「いただきます!」と返事をした記憶があります。
とりあえず自分で陸運支局に行ってナンバーを取得、タイヤも交換し、キャブを分解して適当にジェット類をいじくりまわしてなんとか動く状態にしてみたものの、エンジンが暖まってくると突然アイドリングが急上昇して空吹かし状態になったり、逆に急降下してエンストしたりと非常に不安定な状態は変わらず。
仕方ないので長めのマイナスドライバーをトップブリッジの穴に挿しておき、アイドリングが変になったらすかさずそのドライバーを抜いてキャブのアイドリング調整ボルトを回すという技でかろうじてごまかしながら乗っていました。
当時、既にトレール車はヤマハDTとかカワサキKDX、ホンダならXLRといったそのままレースに出られる高スペックな車種が主流な時代に、いかにも前時代的なシルエットのこのバイクは非常にカッコ悪かったのですが、それよりも「軽快に動き回れる幸せ」に酔いしれ、近場の移動ではほとんどFX君に出番は無くなったのでした。
最初は普通に道を走っているだけでしたが、トレール車に乗っていればオフロードが走りたくなってくるのは当然のなりゆき。
当時、私が通っていた学校は神戸の西の端、明石と隣接する山を切り開いた新興住宅地の中にあり、学校のまわりはそこらじゅう造成中の宅地だったり田んぼだったりした関係で、ちょっとしたダートには事欠きませんでした。
そんなちょっとしたダートをこのXLで走り回り、ジャンプだとかアクセルターンだとかブレーキターンなんかをひたすら練習していたのでした。
そんな、オフロードという新たな楽しみを知るきっかけとなったXL125S君ですが、やはりポンコツはポンコツ。
すっかりオフロード走行の虜になってしまった私は、もっとちゃんとしたオフ車が欲しいという欲求を抑えることが出来ず、結局まだローンが1/3くらい残った状態のFX400Rを売り払い、ローンを返済して残ったお金でこいつを買ったのでした。当然中古で。
ホンダのXLR250R(H)です。
XLRシリーズは、2スト車が圧倒的に主流だった北米のデザート(砂漠)レースに、「4ストのホンダ」が真っ向から勝負を挑むべく開発された4ストエンデューロレーサー・XRシリーズの国内公道仕様バージョンとしてデビューしたバイクで、エンジンからサスからフレームから、ほとんどレーサーXRと変わらないスペックを身にまとった半レーサーというイメージで登場、国内オフロードバイク市場をあっという間に席捲した大人気車でした。
乗ってみると、今までのXL125Sは一体なんだったのか?というくらいまるで別物のエンジン&足回りにびっくり。
XLだったらよほど注意して体重移動しないとフロント着地で前転するようなジャンプや、脳震盪になりそうなほど急に向きを変えるテールスライドも、XLRなら鼻歌混じりで楽々こなせる。
乗り換えて本当に良かったと、心底感激したものです。
このバイクに乗るようになった同じ頃、同じアパートに住んでいた同級生が一人ちょうど中型免許を取得してヤマハのセローを購入。
更には、同じく同じアパートに住んでいて、よく一緒にオンロードバイクでツーリングをしていた同級生のバイク(ホンダCBR250FOUR)がヤンキーのにいちゃんに盗まれ、ボコボコにされて不動車になって帰ってくるという悲劇の末、仕方なくその彼も中古のオフロードバイク(ホンダXLX250)を買うという偶然が重なり、同じアパートの中にオフ車に乗る同級生が3人勢ぞろいという状況に。
ちなみに私が尾崎豊を嫌いなのは、この友人のバイク盗難事件が発端です。
で、それ以降、その3人でいつもつるんであちこちの林道などに走りに行くようになり、オフロード熱は一気に加速。少し遅れてGPZ400Rに乗っていた同級生もオフロードバイクに乗り換え、4人であちこち走りに行くようになったのでした。
更に、学校のすぐ側に個人経営のオフロードバイクショップがオープン、その店に入り浸ってはオフロード情報をせっせと入手。
すると、わざわざ遠く(北攝とか四国とか和歌山とか)まで行かなくても学校のすぐ側にたくさんのオフロードがあることが判明、授業の合間にちょっと軽く1本、みたいな感じでオフロード走行三昧な日々。
夕暮れ時に一人で学校の側のオフロードに走りに行ってガケから転落、一人ではどうしようもなくなり一旦歩いて山を抜け出してバスで帰宅、数日後にロープ抱えて4人でサルベージに向かい、どうにか回収に成功してのでお礼としてみんなに明石の「ラーメン2国」で全部入りラーメンを奢ったなんていうこともありました。
ゴールデンウィークや夏休みになるとみんなでテントと寝袋を積んで四国や和歌山の山中に篭り、毎日あちこちの林道を走り回ったり、25,000分の1の地図とにらめっこしながら神戸の山の中の道無き道を探して彷徨ってみたり。
楽しい日々でした。
そんな楽しい日々も卒業とともに終焉。
バイク仲間はみんな、東京とかあちこちへ飛び立って行き、学問に燃える余り更に一年学校に残って勉学に励むことになり(留年と言ってはいけません)、一人残された私は単独で走る日々。
そんなある日、いつも入り浸っていたバイク屋(阪神のM弓監督の自宅のすぐ近所でした)の店頭に並んでいたのがこれ。
ホンダのXR25R(K)です。写真は91年以降の白タンクにリヤディスクブレーキ仕様ですが、その時店頭にあったのは全身真っ赤でリヤドラムブレーキな89年式。
青赤の87年式XLRに乗っている頃から、その全身真っ赤な89年式のカッコよさに痺れていた私はその店頭の中古車に人目惚れ。
ちょうどXLR君のエンジンがオイル上がりだかオイル下がりだかで激しく臭い白煙を撒き散らすようになっていた時期でもあり、ちょっと無理してそのXRを買うことに決めたのでした。
XRは、公道走行前提のXLRとは違い純競技用のエンデューロレーサーで、本来公道では走れない車種なのですが、そいつをアメリカとかヨーロッパ、オーストラリアなどから逆輸入して、オマケのような保安部品(ライト、ウィンカー、スピードメーター、ブレーキランプ、ホーン等)を装着すると何故か正式にナンバーが取れてしまう。
これは通称「逆車」と言って、当時(今でも?)流行っていた形態でした。
ちなみに、そういうややこしい手続きを取らずに国内販売のレーサーに別のバイクのナンバーを付けてしまうやり方を「テンプラ」と言ったりしていましたが、これは違法行為。私はやったことはありませんよ。
このXR、見た目はほとんどXLRと同じですが乗ってみると足回りからエンジンから全く別物。
まさしく100%ピュアオフローダー。これはもう本当に感激しました。
反面、メーターに夜間照明が無いので夜はメーターの針がよく見えなかったり、プラグに点火するのがやっとの貧弱なジェネレーター(しかもバッテリーレス)に無理矢理ライトやらウィンカーやらを繋いでいるので、エンジン回転が落ちると灯火類が全て蛍の光のように暗くなったりと、なかなかファンキーな仕様でした。
そんなバイクで卒業までの1年間、更には卒業して東京に来てからもずっと乗り続けて現在に至っています。
このバイクでは、私の唯一のバイクレース体験である「日高2DAYS エンデューロ(HTDE)」というレースにも参戦しました。
このレースは北海道・日高町の山中を舞台に2日間かけて行われる(ていた)もので、当時としては日本で唯一の本場ヨーロッパのスタイルと同じオンタイム式エンデューロレース。
そのコースの過酷さと完走率の低さで「日本一過酷なオフロードレース」と言われていたものでした。
コースは日高町周辺の林道とケモノ道を組み合わせた1周100km弱を時間内に2周するというもので、深い泥濘地帯に刻まれた細いケモノ道に苦戦する大勢の参加者を尻目に、普段から神戸の山中で同じようなところを走っていた私は楽々クリア。楽勝だぜ!
と思ったところで予想外に増水した川渡りで水流に押されて転倒、エンジンに水が入ってしまい、川原でバイクをひっくり返してひたすら水抜き作業をしている間にタイムオーバーでジ・エンドというなんとも不完全燃焼なものでしたが、まあそれも良い思い出です。
このバイクに最後に乗ったのは、2003年、前に務めていた会社を辞めて3週間ほど東北地方をウロウロしていた時。
写真は、日本で一番早く定額給付金を配ったことで一躍有名になった青森県西目屋村の林道にて。
ちなみにカウルに付いている「12」という番号は、HTDEに参戦した時のゼッケン番号です。剥がすのが面倒だったのでそのままずっと貼りっ放しです。
このころは今と比べて余りにも顔が福福しいので顔面全面モザイク仕様とさせていただきます。あしからず。
あれから早6年。
その間、一回もこのバイクは動かすことなく我が家のガレージの隅でシートを被ったまま眠っています。
今となっては、もはやエンジン付きの二輪車に乗りたいという気持ちもほとんど無くなってしまいました。
思い出と思い入れが非常に強いやつではありますが、さすがにもうそろそろ捨てるべき時なのかも知れない。
でも、捨てるとしても赤い「オニギリタンク」だけは残しておきたい。
いや、エンジンバラしてピストンも記念に取っておくか。ならばいっそのことカムシャフトとかも。
シリンダーヘッドを小物入れとして再利用したらオシャレ?それからそれから・・・・
うーん、まだしばらく捨てる決心はつきそうもありません。男って本当に未練がましい生物ですね。
終わり。
と、思ったらあと一台忘れていました。
こいつです。
手前のXRではなく、その後ろに小さく写っている黄色いオフ車。
スズキのRMX250R(94年型 USA仕様)です。
確か日高のレースから帰って来た直後に衝動的に買ってしまったバイク。
当時、同じRMXという名前で国内公道仕様車が発売されていましたが、こいつはXRと同じく純競技用車両の逆輸入車。チャンバーもうるさかったなー。
その頃、学生時代のバイク仲間が東京で働いていて、KTMという欧州の高級メーカー製の2ストエンデューロレーサーに乗っていました。
そのKTM250にニコタマの辺りの川原(当時はまだ多少走ることが出来た)で試乗させてもらった時の強烈な印象が忘れられず、ついつい手を出してしまった2ストレーサー。
それまで4ストしか知らなかった私は、「頭の中が真っ白になるような」2スト独特の強烈な加速感に、まるで麻薬のように一瞬で魅入られてしまいました。
こいつを手に入れてからは、当時住んでいた千葉から程近い利根川の河川敷(谷和原インター付近)へ毎週のように出かけては走り回っていました。
混合ガソリン仕様だったので、リュックサックにガソリンとオイルを混ぜたポリタンを忍ばせて国道16を走るという今思えば余りにもデンジャラスなこともやったりしていました。焼死しなくてよかった。
でも、刺激が強すぎるものというのは飽きるのも早い。
買ってから1年ほどでほとんど乗ることが無くなったこのバイクは、いつしか会社の独身寮の駐輪場で朽ち果てていったのでした。
思えば不憫なやつでした。ごめんよRMX。
RMXが朽ち果てていくのと同時に、私の中での「オフロードバイク」への情熱も冷めていきました。
何と言っても、関東にはオフロードが少なすぎる。
その少ないオフロードを走るには片道100km単位の舗装路を延々と走らねばならず、そこまでして辿りついたオフロードも結局は林道。
家から30分も走れば縦横無尽に広がるトレイルの宝庫だった神戸(今思えばハイカーさんに迷惑かけまくりでした。道も大いに削りました。反省。)とは余りにも環境が違いすぎる。
川原ばかり走っていても面白くない。
そうやって次第にオフロードから離れて行った私は、結局バイクそのものからも離れて行ってしまったのでした。
(今度こそ本当に)終わり。
自転車編は、またそのうち。
私の心の中に「もっと軽くて燃費が良くていろんなところが走れるバイクが欲しい」という潜在意識がほどよく醸成されてきた頃、学校の先輩が「このバイク、捨てよう思とんねんけど、欲しかったらあげるで。」と言われて見せられたのがこれ。
ホンダのXL125Sです。
これは確か1979年頃に発売されたトレール車で、私の学生当時で既に10年ものの中古。
しかも「捨てようと思っている」というほどのバイクだけに、そこらじゅうサビだらけで現状ではエンジンがかからず、タイヤも擦り切れてケーシングが露出しているというポンコツ一歩手前の状態でした。
普通なら「こんなのお金くれてもいりません」というところですが、軽くてどこでも走れるバイクが欲しくてたまらなかった私は即決で「いただきます!」と返事をした記憶があります。
とりあえず自分で陸運支局に行ってナンバーを取得、タイヤも交換し、キャブを分解して適当にジェット類をいじくりまわしてなんとか動く状態にしてみたものの、エンジンが暖まってくると突然アイドリングが急上昇して空吹かし状態になったり、逆に急降下してエンストしたりと非常に不安定な状態は変わらず。
仕方ないので長めのマイナスドライバーをトップブリッジの穴に挿しておき、アイドリングが変になったらすかさずそのドライバーを抜いてキャブのアイドリング調整ボルトを回すという技でかろうじてごまかしながら乗っていました。
当時、既にトレール車はヤマハDTとかカワサキKDX、ホンダならXLRといったそのままレースに出られる高スペックな車種が主流な時代に、いかにも前時代的なシルエットのこのバイクは非常にカッコ悪かったのですが、それよりも「軽快に動き回れる幸せ」に酔いしれ、近場の移動ではほとんどFX君に出番は無くなったのでした。
最初は普通に道を走っているだけでしたが、トレール車に乗っていればオフロードが走りたくなってくるのは当然のなりゆき。
当時、私が通っていた学校は神戸の西の端、明石と隣接する山を切り開いた新興住宅地の中にあり、学校のまわりはそこらじゅう造成中の宅地だったり田んぼだったりした関係で、ちょっとしたダートには事欠きませんでした。
そんなちょっとしたダートをこのXLで走り回り、ジャンプだとかアクセルターンだとかブレーキターンなんかをひたすら練習していたのでした。
そんな、オフロードという新たな楽しみを知るきっかけとなったXL125S君ですが、やはりポンコツはポンコツ。
すっかりオフロード走行の虜になってしまった私は、もっとちゃんとしたオフ車が欲しいという欲求を抑えることが出来ず、結局まだローンが1/3くらい残った状態のFX400Rを売り払い、ローンを返済して残ったお金でこいつを買ったのでした。当然中古で。
ホンダのXLR250R(H)です。
XLRシリーズは、2スト車が圧倒的に主流だった北米のデザート(砂漠)レースに、「4ストのホンダ」が真っ向から勝負を挑むべく開発された4ストエンデューロレーサー・XRシリーズの国内公道仕様バージョンとしてデビューしたバイクで、エンジンからサスからフレームから、ほとんどレーサーXRと変わらないスペックを身にまとった半レーサーというイメージで登場、国内オフロードバイク市場をあっという間に席捲した大人気車でした。
乗ってみると、今までのXL125Sは一体なんだったのか?というくらいまるで別物のエンジン&足回りにびっくり。
XLだったらよほど注意して体重移動しないとフロント着地で前転するようなジャンプや、脳震盪になりそうなほど急に向きを変えるテールスライドも、XLRなら鼻歌混じりで楽々こなせる。
乗り換えて本当に良かったと、心底感激したものです。
このバイクに乗るようになった同じ頃、同じアパートに住んでいた同級生が一人ちょうど中型免許を取得してヤマハのセローを購入。
更には、同じく同じアパートに住んでいて、よく一緒にオンロードバイクでツーリングをしていた同級生のバイク(ホンダCBR250FOUR)がヤンキーのにいちゃんに盗まれ、ボコボコにされて不動車になって帰ってくるという悲劇の末、仕方なくその彼も中古のオフロードバイク(ホンダXLX250)を買うという偶然が重なり、同じアパートの中にオフ車に乗る同級生が3人勢ぞろいという状況に。
ちなみに私が尾崎豊を嫌いなのは、この友人のバイク盗難事件が発端です。
で、それ以降、その3人でいつもつるんであちこちの林道などに走りに行くようになり、オフロード熱は一気に加速。少し遅れてGPZ400Rに乗っていた同級生もオフロードバイクに乗り換え、4人であちこち走りに行くようになったのでした。
更に、学校のすぐ側に個人経営のオフロードバイクショップがオープン、その店に入り浸ってはオフロード情報をせっせと入手。
すると、わざわざ遠く(北攝とか四国とか和歌山とか)まで行かなくても学校のすぐ側にたくさんのオフロードがあることが判明、授業の合間にちょっと軽く1本、みたいな感じでオフロード走行三昧な日々。
夕暮れ時に一人で学校の側のオフロードに走りに行ってガケから転落、一人ではどうしようもなくなり一旦歩いて山を抜け出してバスで帰宅、数日後にロープ抱えて4人でサルベージに向かい、どうにか回収に成功してのでお礼としてみんなに明石の「ラーメン2国」で全部入りラーメンを奢ったなんていうこともありました。
ゴールデンウィークや夏休みになるとみんなでテントと寝袋を積んで四国や和歌山の山中に篭り、毎日あちこちの林道を走り回ったり、25,000分の1の地図とにらめっこしながら神戸の山の中の道無き道を探して彷徨ってみたり。
楽しい日々でした。
そんな楽しい日々も卒業とともに終焉。
バイク仲間はみんな、東京とかあちこちへ飛び立って行き、学問に燃える余り更に一年学校に残って勉学に励むことになり(留年と言ってはいけません)、一人残された私は単独で走る日々。
そんなある日、いつも入り浸っていたバイク屋(阪神のM弓監督の自宅のすぐ近所でした)の店頭に並んでいたのがこれ。
ホンダのXR25R(K)です。写真は91年以降の白タンクにリヤディスクブレーキ仕様ですが、その時店頭にあったのは全身真っ赤でリヤドラムブレーキな89年式。
青赤の87年式XLRに乗っている頃から、その全身真っ赤な89年式のカッコよさに痺れていた私はその店頭の中古車に人目惚れ。
ちょうどXLR君のエンジンがオイル上がりだかオイル下がりだかで激しく臭い白煙を撒き散らすようになっていた時期でもあり、ちょっと無理してそのXRを買うことに決めたのでした。
XRは、公道走行前提のXLRとは違い純競技用のエンデューロレーサーで、本来公道では走れない車種なのですが、そいつをアメリカとかヨーロッパ、オーストラリアなどから逆輸入して、オマケのような保安部品(ライト、ウィンカー、スピードメーター、ブレーキランプ、ホーン等)を装着すると何故か正式にナンバーが取れてしまう。
これは通称「逆車」と言って、当時(今でも?)流行っていた形態でした。
ちなみに、そういうややこしい手続きを取らずに国内販売のレーサーに別のバイクのナンバーを付けてしまうやり方を「テンプラ」と言ったりしていましたが、これは違法行為。私はやったことはありませんよ。
このXR、見た目はほとんどXLRと同じですが乗ってみると足回りからエンジンから全く別物。
まさしく100%ピュアオフローダー。これはもう本当に感激しました。
反面、メーターに夜間照明が無いので夜はメーターの針がよく見えなかったり、プラグに点火するのがやっとの貧弱なジェネレーター(しかもバッテリーレス)に無理矢理ライトやらウィンカーやらを繋いでいるので、エンジン回転が落ちると灯火類が全て蛍の光のように暗くなったりと、なかなかファンキーな仕様でした。
そんなバイクで卒業までの1年間、更には卒業して東京に来てからもずっと乗り続けて現在に至っています。
このバイクでは、私の唯一のバイクレース体験である「日高2DAYS エンデューロ(HTDE)」というレースにも参戦しました。
このレースは北海道・日高町の山中を舞台に2日間かけて行われる(ていた)もので、当時としては日本で唯一の本場ヨーロッパのスタイルと同じオンタイム式エンデューロレース。
そのコースの過酷さと完走率の低さで「日本一過酷なオフロードレース」と言われていたものでした。
コースは日高町周辺の林道とケモノ道を組み合わせた1周100km弱を時間内に2周するというもので、深い泥濘地帯に刻まれた細いケモノ道に苦戦する大勢の参加者を尻目に、普段から神戸の山中で同じようなところを走っていた私は楽々クリア。楽勝だぜ!
と思ったところで予想外に増水した川渡りで水流に押されて転倒、エンジンに水が入ってしまい、川原でバイクをひっくり返してひたすら水抜き作業をしている間にタイムオーバーでジ・エンドというなんとも不完全燃焼なものでしたが、まあそれも良い思い出です。
このバイクに最後に乗ったのは、2003年、前に務めていた会社を辞めて3週間ほど東北地方をウロウロしていた時。
写真は、日本で一番早く定額給付金を配ったことで一躍有名になった青森県西目屋村の林道にて。
ちなみにカウルに付いている「12」という番号は、HTDEに参戦した時のゼッケン番号です。剥がすのが面倒だったのでそのままずっと貼りっ放しです。
このころは今と比べて余りにも顔が福福しいので顔面全面モザイク仕様とさせていただきます。あしからず。
あれから早6年。
その間、一回もこのバイクは動かすことなく我が家のガレージの隅でシートを被ったまま眠っています。
今となっては、もはやエンジン付きの二輪車に乗りたいという気持ちもほとんど無くなってしまいました。
思い出と思い入れが非常に強いやつではありますが、さすがにもうそろそろ捨てるべき時なのかも知れない。
でも、捨てるとしても赤い「オニギリタンク」だけは残しておきたい。
いや、エンジンバラしてピストンも記念に取っておくか。ならばいっそのことカムシャフトとかも。
シリンダーヘッドを小物入れとして再利用したらオシャレ?それからそれから・・・・
うーん、まだしばらく捨てる決心はつきそうもありません。男って本当に未練がましい生物ですね。
終わり。
と、思ったらあと一台忘れていました。
こいつです。
手前のXRではなく、その後ろに小さく写っている黄色いオフ車。
スズキのRMX250R(94年型 USA仕様)です。
確か日高のレースから帰って来た直後に衝動的に買ってしまったバイク。
当時、同じRMXという名前で国内公道仕様車が発売されていましたが、こいつはXRと同じく純競技用車両の逆輸入車。チャンバーもうるさかったなー。
その頃、学生時代のバイク仲間が東京で働いていて、KTMという欧州の高級メーカー製の2ストエンデューロレーサーに乗っていました。
そのKTM250にニコタマの辺りの川原(当時はまだ多少走ることが出来た)で試乗させてもらった時の強烈な印象が忘れられず、ついつい手を出してしまった2ストレーサー。
それまで4ストしか知らなかった私は、「頭の中が真っ白になるような」2スト独特の強烈な加速感に、まるで麻薬のように一瞬で魅入られてしまいました。
こいつを手に入れてからは、当時住んでいた千葉から程近い利根川の河川敷(谷和原インター付近)へ毎週のように出かけては走り回っていました。
混合ガソリン仕様だったので、リュックサックにガソリンとオイルを混ぜたポリタンを忍ばせて国道16を走るという今思えば余りにもデンジャラスなこともやったりしていました。焼死しなくてよかった。
でも、刺激が強すぎるものというのは飽きるのも早い。
買ってから1年ほどでほとんど乗ることが無くなったこのバイクは、いつしか会社の独身寮の駐輪場で朽ち果てていったのでした。
思えば不憫なやつでした。ごめんよRMX。
RMXが朽ち果てていくのと同時に、私の中での「オフロードバイク」への情熱も冷めていきました。
何と言っても、関東にはオフロードが少なすぎる。
その少ないオフロードを走るには片道100km単位の舗装路を延々と走らねばならず、そこまでして辿りついたオフロードも結局は林道。
家から30分も走れば縦横無尽に広がるトレイルの宝庫だった神戸(今思えばハイカーさんに迷惑かけまくりでした。道も大いに削りました。反省。)とは余りにも環境が違いすぎる。
川原ばかり走っていても面白くない。
そうやって次第にオフロードから離れて行った私は、結局バイクそのものからも離れて行ってしまったのでした。
(今度こそ本当に)終わり。
自転車編は、またそのうち。
by namifujisan
| 2009-03-27 15:48
| よしなしごと