その日、3月11日(金)のことを忘れないうちに書いておこうかと。
その日は全くいつもと変わらない金曜日で、朝から普通に仕事を。
午後はだいたい端末の前にかじりついて時間と戦いながら膨大な書類を処理していることが多く、その日もいつものようにパソコンに向かい合っていたそのとき、ちょっと大き目の揺れが。
関東では地震は年中行事のようなものだが、この時の揺れは明らかにそんな生易しいものではなかった。
普段なら長くても数十秒で収まるのに、この時は収まるどころか次第に揺れが大きくなり、建物全体が巨人の手でゆさゆさ揺さぶられているような状態になり、高いところに置いてある段ボール箱などが落下を始める。
これはちょっとやばいかも?と思い周りを見回すとかなりの人が机の下に避難していて、たまたま窓口にいた一般の方も窓口の机の下に隠れている。
私はといえば、何故かこういう時には妙に傍観者的な気分になってしまう性格で、そんな周囲の様子を興味深く観察しながら落下しそうな荷物を手で押さえたりしつつ、ふと窓の外を見ると向かいのマンションの窓ガラスがビリビリ震えていて、マンション全体が大きく撓っているのがわかる。これは大事だぞ、と思い始めたところでようやく揺れは収まり始め、次第に収束していった。時間にして恐らく数分間はゆれ続けていただろう。我が人生の中で体験した最大の地震だった。
しばらくしてその揺れは東北の太平洋沖を震源地とする大きな地震によるものだということがわかり、これは津波が心配だなと直感した(この時点ではまだ津波被害の報道はなかった)。
その後も断続的に余震が続き、何度か最初のと同じくらいの震度の揺れも感じながらふとネットのニュースに「○○市で車数百台が流される」というタイトルを見たとき「ああ、土砂崩れで流されたのか。」と解釈してしまったが、これが実は最初の津波被害の報道だった模様。
結局その日はそのまま定時まで仕事をしたところで職員に待機命令が発令され、被害状況の確認とともに不足の事態に備えることに。
幸か不幸かこの時点で電車は全く動いておらず、横浜で働いている妻とも連絡が全くとれない(携帯が全くつながらない)状態で、どうにもこうにも動きようがないので職場で待機することにもさして抵抗は無かった。
そうこうしているうちに「○○小学校に付近の住民が一人避難してきているので避難所を開設するから10人ほど直ちに急行せよ。」との指令が危機管理関係の部署より我が部に対して発動され、体力のありそうな男が10人見繕われて(含む私)避難所開設班を結成。簡単に準備して直ちに急行しようとしたところで再び危機管理関連部署から「ちょっと待て」との指令が入る。で、一旦解散しかけたところで今度は「○○高校の体育館に帰宅困難の高校生数百人が集まっているので、災害用毛布を配布しに行け。」との指令が出される。
危機管理関連部署も相当混乱しているようだが、直接大した被害を受けたわけでも無いのにこんなに混乱しているようでは、直接甚大な被害を受けたような時には全く機能しないのではないかと少し不安になる。
ということでさきほど結成された避難所開設班10名がそのまま毛布配布班として現場へ急行。
と思いきや、普段なら車で5分ほどの距離なのに大渋滞のせいで全く進まず、20分ほどかかってようやく○○高校に到着、災害備蓄倉庫のカギを開けて毛布を体育館に搬入して(作業時間約10分)、再び大渋滞の道を走って職場に帰還すると既に待機命令は解除されたようで、皆帰宅しようとしているところだった。
私の職場は近所から通っている人が多いので、皆比較的落ち着いて歩いて帰ろうとしている。
しかし私のように電車で1時間以上かけて通っている人間はそういうわけにもいかず。歩いたら5時間はかかる。
と言ってタクシーで帰るというのも、さきほど実地で体験した大渋滞の道では更に非現実的。
となると残る手段は一つ、自転車しかないのだけど、あいにくこの日は自転車通勤ではなかったので乗る自転車が無い。
でも心配無用。私の職場のすぐ近所には夜10時まで営業している巨大なショッピングモールがあり、その中にママチャリ屋があるのだ。
時刻はまだ8時過ぎ。果たして自転車屋は普通に営業していた。
そこで店頭に並んでいる数多くのママチャリの中から、比較的クロスバイクっぽい形でシマノの外装6段変速を装備した「WAVY ROAD」という白い自転車を購入(お値段10,800円也)。
スポーツ車っぽいダイヤモンド形状のフレームで、パッと見軽くて早そうだけど乗ってみると走りはかなり重くてダルい。まあ10,800円だから贅沢は言えないし、後日聞いた話だと都内ではママチャリ屋の前に行列が出来て、値段など関係なくとにかく乗れる自転車を奪い合うような様相が現出していたそうだから、それを考えれば幸せなことこの上ない。
我が家に8年ほど前からある雨ざらしのママチャリよりも走らない新品のWAVY ROADを駆っていつもの通勤ロードをえっちらおっちらと走る。
町田のあたりを通過する時、ふと何か違和感を感じた。進んでいくうちにその違和感は更に強くなるものの、一体何に違和感を感じているのかよくわからないまましばらく走り続けているうちにハタと思い当たった。そう、町全体が真っ暗で灯りが一切無いのだ。停電だ。
住宅も、商店も、コンビニも、信号さえも真っ暗で灯りの類が一切存在しない町。唯一の灯りは車のヘッドライトだけ。そんな暗闇の中を帰宅難民と思しき大勢の人たちが黙々と歩いている。
その光景は、なんというかリドリー・スコットの映画のような幻想的で非現実な世界だった。
3月とはいえまだ肌寒い季節、グローブ無しで走っていた私の手は既に感覚が麻痺するほどかじかんでいたけれど、暖を取るための暖かい飲み物を買えるコンビニも当然営業停止状態で、どうすることも出来ずひたすら暗闇の町を進む。
大きな交差点には警官が出て交通整理をしているが、小さな交差点までは手が回らないらしく、機能を失った信号機を前に恐る恐る進む車たちが激しい渋滞を巻き起こしている。私もそんな交差点に入るときはかなりの恐怖を感じながらソロソロと進むしかない。
そしてようやく町田市を抜けて川崎市に入ったところで電灯が灯り始め、営業中のコンビニを発見して暖かいコーヒーでかじかんだ指先を暖めることが出来た。
そのコンビニには同じような境遇と思しき人が大勢集まり、さながら砂漠のオアシスのような光景であった。しかしこの時点で食品棚には商品が全く無かった。
そんなこんなでようやく自宅にたどり着いたのは既に11時前。
なんとか連絡がとれた妻から「オーブントースターの上に置いてある天麩羅鍋(油入り)が心配」と聞かされていたので、帰宅と同時に盛大に床掃除をしなければと若干憂鬱になりながらドアを開け、恐る恐る台所に行ってみたものの幸い天麩羅鍋はひっくり返ることなく無事。他もせいぜい本棚の本が多少崩れていたり、多少物が落ちたり転んだりしていたのみで甚大な被害はゼロで一安心。
しかし、その後テレビで見た被災地を襲う巨大津波の映像に衝撃を受け、暗澹たる気持ちになったのは言うまでも無い。
妻は結局横浜から帰ってくることが出来ず途方に暮れていたようだが、たまたま会社の側に住んでいる同僚の実家に泊めてもらうことが出来、多くの首都圏の帰宅難民のように体育館やホールの床で寝る事態には至らなかった模様。
数年前、災害時の帰宅困難状況を想定して「自宅まで歩いて帰る訓練」のようなものが首都圏で行われたことがったが、今回図らずもそんな状況が実際に現出した。
実際に体験してみると、首都圏というのがいかに災害に脆いかよくわかる。
被災地の方々の苦労には比べるべくも無いが、なかなか稀有な体験をした一夜であった。